観音寺の由緒・縁起
当観音寺は、遠く奈良時代聖武天皇の御代、神亀3年(726)行基菩薩によって開創され、 はじめは正福寺と称し、天台宗に属していたことが、寺記に伝えられている。 寿永年間、平清盛の臣、橋判官長綱により破却されたが、その後40余念を経て、 当地の目代(代官)半澤六郎によって再興され、当時、徳名高い豊川明言寺玄上和尚を 住職に迎え、曹洞宗に属することとなった。
その後星霜を閲すること300年、永正年間に至り、三河松平家三代信光の八男、 当地の城主光親が堂宇を再建して観音寺と称し、以来子孫代々、家運長久の祈願所 として尊崇してきた。
慶長6年(1601)伊奈備前守忠次より寺領五石の寄進を受け、慶安元年(1648)三代 将軍家光によって、これが朱印状に改められた。
本尊は釈迦牟尼如来、脇内陣には三十三観音を祀ると共に、前住職二十一世芳道 和尚代、本堂南に設けられた回遊式庭園「報コ園」には、弁財天および西国三十三所 霊場の御砂を将来して三十三観音を奉安し、三河三十三観音霊場第四番札所となって いる。
墓地には、松平光親以下代々の墓碑か現存しています。
観音寺について
宗 派 曹洞宗(禅宗)
本 山 永平寺
寺院名 見松山 観音寺
所在地 愛知県岡崎市城北町15-17
その他 三河三十三観音第四番札所